昭和50年05月22日 朝の御理解
御神訓 一、「神の教へも真の道も知らぬ人のあわれさ。」
これは信心のある者から、信心の無い者を見た時にこんな感じがするんですけれども、これはどこまも神様がご覧になった所なのです、神様が私共人間氏子の上をご覧になって、真の信心の教えも又真の道も知らぬ人間の哀れさをと言うておられるのだとこう思います。信心の例えば神の教えと言う事、ならこれはそのう信心のある者から信心の無い者を眺めた時に、本当に信心の無い人は気の毒だと言うような風に言えるんですけれども、教えを聞いたり識ったりしておるだけでは何にもならんのです。
やっぱぁ教えを頂くだけ、聞くだけであってはやっぱり哀れなことです。識ってもそれを行じないならば、あってない様なものです。また教えを頂いて、教えを知って、教えを行じてはじめて真の道もわかるのです。ですから信心を頂いておっても、やはり神様の目からご覧になると、本当に哀れな氏子になるのじゃないでしょうかね。信心がさほどに生活の上に役に立っておる、役に立っていないと言う様な事ではなくて、真実教えを頂いて教えを行じ、そこから開けて来るところの真の道。
それを辿らしてもらうあり方になる、そこから生まれて来るものが、信心の歓びであり又は、真のおかげだと思います。真の道を歩かせて貰うのですから、真のおかげが現れて来るはずです。真の道を歩いておればどういう事になって来るかと言うと、勿論有難いと言う心が募って来るでしょうし、言うたら不安のない心配のない、生活が出来る様になる、と言うてまあ私共人間が、所謂世の荒波とこう申します様に、それこそ険しいこの人生をです、歩かせて頂くのですから、決して楽と言う事じゃない。
また、いろいろの問題がないと言う事ではない。けれどもその険しい道をです信心の教えに基づいて、私共が歩かせて頂く時です、その険しい道もまた有り難い。難儀な問題もまた、難あって喜ばせて頂けれる道がちゃぁんとついて来ると言う事なんです。だから信心しとっても不安、焦燥がないわけじゃない、けれどもその不安とか焦燥なことかがあるけれども、心をひとたび神様へ向ける。
真の道を歩かせて頂くとです、その不安なこと焦燥なある事が、信心の道を愈々奥雅へ奥雅へと進ませて頂ける事になるのですから、その不安に思う様な事もまた有り難いんだと言う事になる。二代金光様、四神様ですね、四神様の御教えの中に、信心せよと言うとすぐに拝み出す、信心とは拝み出す事じゃやないんだと言う事です。勿論、信心に御祈念所謂拝むという事が付かない宗教はないと思うですけれどもね、拝むと言う事は悪い事じゃない。むしろ拝む事なんですけども。
拝むと言う事を、すぐ拝むと言う事ではなくてね、信心せよと言うとすぐ拝みだす。私くしはきょうは真の道と言うのは、私しは改まって行く限りなく研いて行く道を真の道だと思うですね。して見るとです、そん真の道所謂真の信心と言うのはですね、拝み出すことも有り難いのですけれども、拝む内容がいよいよ改まらして下さい、研かして下さい。その例えば、問題、その難儀、そう言う難儀を通して私は改まらして頂く、研かして頂くと言う事だと思うです。
一生懸命に拝むからおかげを頂くと言うのではなくて、一生懸命に改まったから、一生懸命に研くから有り難いのです。だから信心せよと言うことは、まず改まるそしてみがく、しかもそれは限りなくと言う事ね。そりゃ例えば私共もでもね、いろんな難儀な問題に直面いたします。ですからやはり難儀な問題に直面すりゃ、やはり拝むより外にないですから拝みます。
拝みますけれどもです、拝む内容がその難儀な問題が、云わば突発的に起きると致しますか、だから拝まにゃおれませんから拝みますけれどもね、先ずはお詫びとか、まずはお礼とか、そしてあのーいよいよ私が改まりますから、研きますからと言う拝む内容なんです。昨日も私くし難儀な問題に直面しました。勿論今の様に拝みました。一生懸命拝みました、けれどもね、私はあのーその問題を通して、私が研きますから、私がいよいよ改まりますからと言うことになってくるんです。
そしたら、神様からね、私が難儀を感じると、信者が助かると頂きました。もう私くしはそれを頂いた途端に、今ここにあった難儀と言うものが一遍にスパーッと無くなってしもうた。ね、これは片島せんと言う女の大変お徳を受けられた先生がおられました。もう、神様から御神前に出られると、いちいちお伝えがある、いろいろ神様がもう直々お知らせを下さる訳です。沢山の人が助かった。
ある時に大きな手洗鉢のお供えがあった。大きな手洗鉢である。そこでね神様にね、どうぞあの手洗鉢に、の、水が干し上がってしまう程しの信者をお差し向け下さいと言うて願われた。そしたらね神様からね、お叱りを受けられたと言う事である。どうぞあのお手洗いのお水で心を清める、心を洗う氏子を差し向けて下さいと何故願わんかと言うお伝えがあったと言う事です。
このお手洗いの水が沢山ある、この水が干し上がってしまう位な沢山の信者を、お引き寄せ下さいと願われた。そしたら神様からお叱りを受けられた。あの、お手洗いの水で、それこそ皆さん、ここでお手洗いの水で手を洗ったり、お口ゆすいだりなさるのはです、勿論、手、口をゆすぐと言う事なんですけれども、その心と言うのは、心を清めるのです。心を洗い清めるのです。そう言う意味なんです。
ですから、本気でお広前に向こうて来る、お参りをしてくる信者が、心を清めさして下さい、改まらして下さいと言う様な信者が、沢山集まる様に何故願わんかと言う事だったと言う事です。ですから成る程改まると研くと言うことは、信心だと言う事がわかります。ある時にこの先生はある一つの持病を持っておられた、もうそれが時折もうそれこそ死ぬ程の苦しみをなさる様な苦しみである。
御神前に出られてからその事を願われた。もうこんなに苦しいごとあるならもう早くお引き取り下さい、もう死んだ方が楽ですと言うわけです。こんなに苦しいなら神様、もうこの命をもうお引き取り下さいと願われた。そしたら神様からねその方が苦しいと氏子が助かると、仰ったそうです。私が、昨日感じたのもそれでした。難儀な問題故に、拝まなければおられないけどもその、私共が拝むと言うのは、只、四神様が仰るように、信心せよと言うとすぐ拝み出しますわい、と言うてどうぞ難儀を助けて下さい。
どうぞおかげ下さいと言う拝みかたじゃないのです。四神様が仰るのはただ、そう言うて御神前に縋ってね、縋りつく様な信心をする者が多い。本当に信心せよと言うものは、本気で改まらして下さい、本気で研かして下さいと言う事だそれが真の道だぞと教えておられるのです。ですから、拝むのがいけないのじゃない、その拝む内容が、もちろん、痛ければ痛い、痒いと願いも致します。
けれどもその内容がね、その難儀と感ずる時にです、とても普通では出来ない改まりもその難儀を通して、研く事もさせて頂く、と言う事になるからです、私くしが悩んでおる、私が苦しんでおると信者が助かる。私がただ悩んでおったり苦しんでおったり難儀を感じておるだけでは、信者は助かりゃせん。私くしが難儀を味わう時には、必ず研くことに勤めておる。かならず改まることに一生懸命になっておる。
だから信者が助かる。はぁ私が苦しんでおれば、いや苦しむと言うか、私が修行をしとれば、私が研いておれば改まっておれば、その事を通して信者が一人でも多くの信者が助かる事になれば、これはその私くしが難儀を感じておるその難儀よりも、人が助かると言う事はもっと有り難い事だと判らして頂く時に、今までの難儀がどこかにいった様にスーッとする思いが致します。
私くしは神の教えも知らぬと、如何にこうやって御教えを頂いておっても、その教えを自分の行き方の上に、血、肉にして行かなかったら教えを頂いても頂かんでも、言うなら教えはないも知らんのも同んなじであります。それを行じないならば真の道がわかる筈もなからなければ、頂ける筈もない。勿論開ける筈もないです。ですから、信心を頂いて居りましてもね、神様の目からご覧になるとです。
毎日毎日参っては来よるけれども、教えも守らん、真の道もこれじゃ何時までんわらんが、まあ何と哀れな氏子であろうかと、神様が矢張り哀れむ思いをしなると思います。ですから、私は、いつもこの御教えは、信心のない者の姿の様に思うとりましたが、信心を頂いとりましても、教えを聞かず、頂かずならば、真の道も開ける筈もありませんから、不安は不安心配は心配で、只その不安から心配からどうぞ、どうぞと願うだけの信心になってしまいます。それではお道で言う信心ではないのです。
四神様が被仰る信心せろと言うとすぐ拝み出しますわい、そういう部類の信者になったんでは駄目なんです。おがむ事も大事けどその拝む内容が研きますから、改まりますからと言う信心。片島せん先生に、神様が教えておられますように、只ここに参って来る信者達が沢山参って来れば良いと言うのじゃない、心を研き改まる事を楽しみに参って来る氏子を、お差し向け下さいと言うて何故願わんか、と言うところに神様の願いがわかる様な気が致します。如何に私共に神様が、さあ研いて呉れよ、改まって呉れよ。
そうしなければ真の道が開けないんだ。そうしなければ、真の本当のおかげが頂けないんだと言うておられる事がわかるでしょう。何十年信心しとっても、真の道が判らなかったら、真のおかげは生れて来ません。只、お願いをするあヽおかげを頂きました。おかげで例えば今日も商売繁盛しましたとか、おかげで病気が治りましたとか言う、そう言うおかげは頂かれるでしょう。ね。お取り次ぎのお徳によっておかげも頂かれましょうけれども、自分自身が真の道を改革して行くところにです、神様の願いがある。
氏子信心しておかげを受けてくれよ、と言い、仰るのはそう言う信心の事を仰るのです。そこにはなら起きてくる例えばけわしい問題、険しい道を歩く事もありますけれども、その険しいまた有難いと言う事になります。あヽこの世は苦の世だ、苦の世界だと言うて過ごしたんではつまりません。成る程苦の世です、苦の世界ですけれども、その苦が言うならば、私にとっては、神様が私に示め給う修行だと思うたら。
修行させて頂くことが有り難い、その修行の暁には心が段々、愈々開けてくる。という様な私は順序、そう言う一つの信心の道を辿らして貰うと言うのですから、そう言う難儀と言う物を通して、それを手掛かりとして、愈々真の道を解り、そして真の道を歩かせて貰う、そしてそこに真のおかげを頂いて行ってこそ、神様も喜んで下さり、私共も喜ぶと言う事になるのですね。
どうぞ。